Gallery Kawafune ギャラリー川船


島田澄也 展

2005年7月11日(月) - 7月23日(土)
11:00-19:00
会期中無休

「官選弁護士 八王子地裁」 
1954年頃 油彩 キャンバス 30M

島田澄也の「返り咲き」のために

針生一郎

今十年ほど前、目黒区美術館がなぜか多摩美大グループに企画をゆだねて、〈1953年展〉なるものを開催したことがある。そのカタログの企画者序文によれば、1953年は敗戦後の混乱も変革も終わって、何もめぼしい動きが無かった任意の年として選ばれたという。だが、わたし自身にとってそれは、東大美学研究室で学会誌『美学』の編集にあたることになり、版元をひきうけた美術出版社に打合せに行くと、かつて真善美社につとめて〈夜の会〉の事務局を兼ねていた編集者河野葉子がそこに移っていて、彼女が『美術批評』誌に何か書けというので、〈ラウンド・テーブル〉欄に投書したのをはじめ、二、三編の美術評論を書いた年である。とりわけ、同誌からはじめて展評を注文されたのが前衛美術会と青年美術家連合の共催する第1回〈ニッポン展〉で、そこで出会った山下菊二の《あけぼの村物語》や、当時19歳の河原温のペン画《浴室》シリーズから、戦後モダニズムの克服という課題を啓示されたことは忘れられない。
 ところが、〈1953年展〉には、〈ニッポン展〉の出品作と作家が全然とりあげられていない。だから、やはり出品作家の一人であった池田龍雄が、『新美術新聞』でそのことに疑問を呈すると、多摩美大側では峯村敏明が同じ新聞に、〈ニッポン展〉は政治情勢に追従した作品ばかりで、芸術的に成熟した表現にとぼしかったから、ここではすべて切りすてたという意味の反論を書いた。だが、わたしからみるとこの峯村の論はまったく見当はずれだから、池田・峯村の二回ずつの応酬ののち、わたし自身も論争に介入するに至った。
 〈ニッポン展〉には前にあげた作家たちのほか、桂川寛、大塚睦、入野達弥、尾藤豊、勅使河原宏、福田恒太、中村宏など出品作家も多士済々で、のちに「ルポルタージュ絵画」の震源地といわれた。たしかに彼らのうちの多くは分裂抗争中の共産党主流派にそそのかされて、米軍基地反対闘争を組織するための山村工作隊に加わった経験があるが、芸術上ではだれもソ連流の社会主義リアリズムなど信奉しなかった。むしろ彼らはおおむね花田清輝や安部公房の提唱した、シュルレアリスムを否定的媒介としてドキュメンタリーへという方向の影響下にあって、どのようにシュルレアリスムを克服するか、映画のクローズ・アップやモンタージュの手法をどうとりいれるかなど、方法論議にたえず熱中した。むろん、若者の観念的な論議から、すぐ「成熟した表現」が生まれるとはかぎらないが、この運動から少なくとも数点の歴史に残る作品が生まれたことは、1985年パリのポンピドウ・センターでの〈前衛の日本〉展に選ばれた作品をみても明らかだろう。
 ついでに言えば、大阪のある新日本文学会員が、青春を賭けた数々の闘争が、共産党の「六全協」後、「極左冒険主義」として否定されたことへの疑問と憤懣を解明すべく、自分の参加した奈良・吉野の山村工作隊や枚方事件、吹田事件の詳細な記録を、昨年単行本として出版した。その本に解説を寄せた現代史研究会の伊藤晃が、共産党は当時何よりもとり組むべきスターリン主義の克服を回避して、「極左冒険主義」の一語のもとに人民の抵抗権、武装権まで否定したのは、最大の誤謬だったと書いた。そのころ党員だったわたしも、あそこから宮本顕治独裁のもと共産党の革命放棄と議会主義への追随がはじまったという意味で、伊藤の指摘に全面的に同意する。
さて、〈ニッポン展〉とそれをめぐる情勢に長々とふれたのは、東京芸大を出たばかりの論客として島田澄也とわたしが知り合ったのも、その出品者大会だったからである。もっとも〈ニッポン展〉は第三回までで終わり、その間に大衆社会の成熟とともに「ルポルタージュ絵画」も多様な方向に分解しつつあった。わたし自身は1956年末の〈世界今日の美術展〉で、全貌を紹介されたアンフォルメルと対決して、シュルレアリスムからダダの原点にさかのぼることを主張したため、旧〈ニッポン展〉の一部作家からは「転向」視されたが、さすがに山下菊二や河原温はそれぞれダダや抽象をめざして作風の転換をはかった。
 島田澄也の消息は、〈ニッポン展〉消滅後久しく聞かなかったが、昨年初頭、〈昭和少年回顧〉シリーズの作品写真が彼からわが家に送られてきた。回顧といってもノスタルジーや抒情に流れず、じっくり描きこんであるため説得力があると、その写真をいくつかの画廊にもち歩いたら、ギャラリー川船の画廊主が「これなら作品を選べば、個展をやれるかもしれない」といってくれた。ただ手順のゆき違いがあって昨年夏の個展には間にあわず、わたしが島田の息子に車で迎えられて世田谷の島田家を訪問したのは昨年の暮れである。
 そのとき〈ニッポン展〉以後の彼の経歴をたずねて、テレビ時代の到来とともにその番組の下請け製作会社を設立して事業は繁栄し、彼自身は社長を長くつとめたが、近年後輩に地位を譲って会社をやめたと聞いた。つまり、画家としての彼のキャリアには長い空白の時期があって、それだけに「返り咲き」の困難さも重々わかっている様子だった。しかも、問題の〈昭和少年回顧〉シリーズは、作品現物を見るとサムホールぐらいのサイズで、会場の中心とするには小さすぎる。そのほかに近作の主力としては、東北の辺境まで歩きまわって描いたらしい民家シリーズがあるが、厚塗りのマティエールに失われゆくものへの愛着の情緒や感傷がこめられすぎる。
 結局、画廊主自身もアトリエを訪問して、1950年代の農民群像や基地闘争のために裁判に引き出された農民や弁護士の法廷情景などを、展観の中心にすることに決めたらしく、私自身はそれらの作品を見なかったため、島田父子がもう一度それらをたずさえてわが家を訪れた。むろん、わたしがふれたそのほかの作品も会場にならべるのだから、わたしに異論があるはずは無い。ただそうなると、やはり50年代の作品が基軸で、島田が長い空白期をこえて再出発した足どりが、観客の眼に十分力づよくたしかにみえるかどうか、わたしには多少気がかりである。そこでこの個展の観客の側にも、作者が四十年の空白を経てまだ表現しつくしていない内部にわけいる、親切なまなざしを要望せずにはいられない。

                 (はりゅういちろう / 美術評論家)

 

<昭和少年回顧シリーズ>
「おとうちゃんが会社を首になると云うことは」
油彩 板 23×15.5cm

<昭和少年回顧シリーズ>
「たんこちゃん たわし売りの老人」

油彩 板 23×15.5cm   



「囚人の食事」
1954年頃 油彩 キャンバス 15F

「囚人の夢」
1954年頃 油彩 キャンバス 10F


「拘留開示公判(滝沢裁判係) 八王子地裁」
1954年頃 油彩 キャンバス 30

「兒玉秀幹 像」
デッサン 木炭・紙  1948年
 

 


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