Gallery Kawafune ギャラリー川船

入江比呂展
IRIE HIRO EXHIBITION
1999年9月15日(水・祭日) - 25(土)



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彫刻と寿命 −'99入江比呂展のために− 門田秀雄(もんでん・ひでお 美術家、美術評論家)

 庭で風化にゆだねられた入江比呂の作品のなかに、破損や倒壊をくいとめる部分的な修理の施されたものがある。これはおもえば不思議である。修理は作品の極く一部で、それも風化のある段階までなのだが・・・・。自作を自ら崩壊ー消失の課程に投じながら、なぜ修理するのだろう。
 入江比呂はある時期から、たぶん1970年前後、自作を普通の物品や、あるいは必ず死の訪れる人や動植物と同じでよいとかんがえたのでないか。気に入った作品の早過ぎる壊落・崩壊には、治癒できる病人に対するように時に手をほどこすが、それもある段階で止めてしまう。永遠の芸術となるのは望ましいとしても、芸術にも普通のものや生命体のように寿命があってもよいのではないか、と。
 一方、彼は全ての代表的作品を外に出したのではなかった。木が主な素材である作品ー独特の笑気を発しているーは屋外に出されていないのである。木は腐りやすいし、それ以上に、草木の繁茂する湿潤の自然に木は合いすぎるのである。だから、風化が制作活動の最終目的であったとは思えない。彼にはどの時期の様相でもよかったのではないか。
 ただ、近代美術のこらまでの鑑賞態度からは外れるのかもしれないが、わたしは白セメントをベースにして金属やプラスチック部品、ガラス片などで構成された異風の造形が、物性の違いから風化の度合いを異ならせながら、自然の浸食をうけて時間を担い、なお自然に対抗して、全体として自然との位差を明瞭に美として発している様を得難い光景と感じる。ちょうど熟成の酒やワインのように、この作家の作品には程よい風化というのがある、とおもったりする。しかし、風化がもっと進むと、自然に近づき、やがて自然と区別がつかなくなってしまう。
 自作が他の物品並に滅んでもよい、という発想は直接的には、彼が素材に日常の器物や使用済みの機器の部品・断片などを使ったときに始まった。それは彫刻(芸術)制作には資格や特殊な習練は不用で、望ならだれもが作れるべきという発想であったし、そういう芸術解放の考えは、彼の場合、とおく彫刻家としてのキャリアの過酷な出発のかたちー東京美術学校・彫刻科在学中にプロレタリアート美術運動に投身するーにまでたどることができる。
 戦前・戦中も難儀であったが、戦後も大変であった。
 敗戦後間もなく、彼は戦後のもっとも急進的な美術集団、前衛美術会の結成に参加し、リアリズムから反転して、政治的、社会的主題を担ったシュールリアリズム的彫刻、という欧米にも模範の求められない造形をいろいろに試みる。(その多くは写真や題名の残るのみ。)これはリアリズム彫刻を、大衆に依った場所で、刺激的かたちで乗り越えようとする。その後のながい芸術的闘いの始まりであった。それは全ての芸術的たたかいがそうであるように、彼ひとりのたたかいであったが、それはまた彼の、この国の近代とのたたかいでもあった。入江比呂はそれを85年の生涯をとうして闊達の趣で生きぬいた。
 ところで、庭に置かれた作品でまだ動かせるものは全て室内に入れたとき、わたしはどの程度にか作者を、というより、彼の仕事のひそかなファンを、裏切った、と自覚している。だが、自然との危ういせめぎ合いを方香する魅惑的な造形を、そうやすやすと自然の手にわたすわけにはいかなかったし、今もいかない。もうすこし、いや、できるだけ長く、せめて現状のまま多くの方々に見ていただきたい、と思う。それに、寡作のうえに、残る作品も僅かとはいえ、ここにいたるまでの貴重なー歴史的、といってよいー行程もあるのである。

 
入江比呂略年譜
1907 福岡県若松市に生れる。本名、弘
1927 東京美術学校彫塑科入学。ときに実家が破産する。‘32 同校・同科卒。
1930 第3回プロレタリア美術大展覧会に、佐田四郎のペンネームで彫刻出品。
     日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)東京支部執行委員となる。
1934 ヤップ解散。小熊秀雄、中野重治、坪井繁治、松山文雄らと「サンチョクラブ」発会。
     敗戦までの間、旧ヤップのメンバーらと美術活動を行う。数ヶ月の留置もされる。
1945 応召。敗戦後、豊島区千早町に帰る。秋、「美術文化協会」会員になる。
1946 「美術文化協会」分裂に伴い「前衛美術会」結成。
1947 第1回「前衛美術展」出品。「齣展」に名称変更後も出品を続ける。
1960 60年安保闘争に参加。前衛美術会有志によるRAF(革命的芸術家戦線)に参加。
1971 『入江比呂彫刻展』鎌倉市笛田の自宅の庭とアトリエで初の個展を開催。
1979 前年の腹膜炎手術後、体調低下。神経痛悪化のため歩行が困難となる。
1981 <入江比呂作品集刊行会>発足。翌82年、刊行記念展開催。
1988 一江夫人、大船駅で転倒、大腿部複雑骨折で入院。
1991 『<物体詩>ー思考するオブジェからGOMI・ARTへー』(板橋区立美術館)『ヒロのビーナスV』出品。
     絶作・「ベトナムの犬」、「四つ目」制作。
1992 9月12日、脳内出血による急性心不全のため永眠。享年85歳。


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